アハマド・シャー・マスードについて

Text Box: “いつの日か、この国に永続的な平和が訪れることを切望してやまない。                                                 武器を倉庫に入れ、人々はペンを手に取るでしょう”                                                                                 

アハマド・シャー・マスード


















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アハマド・シャー・マスードは、カブール大学ではエンジニアリングを学ぶ学生でしたが、その後、アフガン軍の軍事指導者としてソビエトのアフガン侵攻軍を撃退。尊敬の念を込め、「パンジシールの獅子」という異名で呼ばれるようになりました。

アハマド・シャー・マスードは、イスラム暦1332年10月6日(西暦1953年1月9日)にパンジシール州ジャンガラックでドスト・モハマド・カー高等警察官の子として生まれました。5歳の時に、バザラック初等中学に進学しました。2年生の時に、父親がヘラット警察署長に昇進したため、3・4年生時は、ヘラット市内のモオワファク中学に通いました。また、イスラム教の教育は、へラット市内のいわゆる“ジャミ・モスク(Masjed-e-Jame)"で受けました。後に父親がカブールに転勤となっため、5~9年生時はカブー市内のイステクラル学校に通いました。                                                                               
マスードは子供の時にすでに才能を見出され、10年生からは、とても優れた知能を有する学生だと学校側から認められることになります。ダリ語を話す環境で育ったマスードでしたが、フランス語、パシュート語、ウルド語を流暢に話せるようになっていました。さらに、彼はアラビア語についても実用的な知識を身につけていました。 マスードは、“私にとって、北と南、ペルシア語とパシュート語という区別は、全く無意味だ。私達の地元では、この3つ全ての言語を話す”                                                                                   
文化やスポーツに対するマスードの愛情の深さは、いつも仲間達に活力を与えていました。イスラム暦1346-47年(西暦1967-68年)、14歳のマスードはジャンガラックという地元の町に初のバレーボールチームを作りました。夏休みの間、彼はジャンガラックや隣町の若者を集め、バレーボール大会を開きました。                                                                               
彼の謙虚で、心の広く、規律正しい性格により、仲間うちで人望を集め、自然とリーダーとしてみなされるようになりました。                
“私達は、カルテ・パルワンで生活していた。ここにはとても良い友人が何人もいた。私達のグループは、大体50人から60人いた。当時、イスクラアル中学の7年生だった私は、皆の世話をみてやってたんだ”とマスードは言っています。                                      
マスードは後にそのような時間は一切なくなりますが、実に多くのことに興味を持っていました。お気に入りのスポーツは、サッカー、乗馬、水泳、空手でした。また、彼はカルテ・パルワンの友人達を中心に作ったサッカーチームの熱心な監督でもありました。
さらに彼は熱心なチェスプレイヤーであり、読書家でもあります。好きな文学は旅行記と歴史書でした。叙情詩の中では、ジャラール・ウッディーン・ルーミー、ハキム・サナイ、べジル、ハーフィズです。 
“ハーフィズの詩を愛読しています。いつも読んでいます。彼の詩が私を変えてくれました。音楽は、人間の感情の最も深い部分に語りかけてきます。詩と音楽は誰にでも影響を与えてくれるものなのです。
マスードは“アリアン”という名前の数学コースを作り、カルテ・パルワン市内のバハレスタン・エ・ジャミにある彼の住まいの近辺で集まっていました。彼のクラスメイトだけではなく、そこに住む学生全員が、このコースに参加しました。                                        
政治に対する興味はどのように生まれたのかという質問に、マスードは答えています。“私の父の周りには、政界でどのようなことが起こっているのかについて豊富な知識を持った友人がたくさんいました。彼らは、私達の家に来ると、国内外の政治について盛んに議論していました。ですので、私が政治に興味を興味を持つようになったのは、自然なことに過ぎなかったのです。この時の議論や討論が私の将来に影響を与えたのです。イステクラルで9年生の頃に、政治活動を開始するようになりました。”                                  
8・9年生の時に、カブールの学校で共産主義運動者が初の暴動を起こしました。マスードの信条は共産主義とは別にあったので、共産主義者の考えを支持していたクラスメートとは問題が生じていました。当時、ほとんどの政治運動は口論の応酬という形だったので、積極的に運動に反対するためにはマスードは経験が足りませんでした。ただし、マスードも共産主義者も、左派ということでは共通していました。そして、マスードはイスラム運動に目覚めることになります。                                                 
1352年(1973年)、大学の入学試験に受かった後、マスードはかねての希望通り、カブール・ポリテクニック大学の建築・工学学科に入学しました。                                                                              この年に、名誉あるイスラム党(Hezb-e-Jamiat-e-Islami)に正式に参加し、イスラム運動活動家でエンジニアでもあるハビブ・ラハマンと知り合います。                                                                                  
共産主義、つまりはソビエト連邦に近すぎると思われていたダウド体制下において、ハビブ・ラハマンの指揮により、最初の反乱が計画され、マスードも参加することとなります。ところが、この計画はあらわにされ、ラハマンは半年間、拘留されることとなります。マスードはカブールから逃亡しました。当時、イスラム党の軍事活動を指揮していたヘクマトヤールはテロ行為がうまくいくはずだと確信していました。イスラム党の目的達成の手段として、爆弾テロ、酸攻撃、政敵の暗殺を行いました。この時からすでに、マスードはこういった活動をするイスラム過激主義への反感を口にしていました。                                                                 
テロ行為に公然と反対したため、マスードとヘクマトヤールは後に激論を交わすこととなります。マスードがテロ行為に見たものは、彼が実際に救いたいと思っている人々を殺戮することだったのです。マスードの兄弟アハマド・ワリはこう語ります、“マスードはいついかなる時でもイスラム教徒でした。同時に穏健的な考えの持ち主でした。つまり、私生活でも政治活動においても、決して過激派ではなかったのです。極右と極左の両者は、アフガニスタン人が求めるものを無視したので失敗に終ったとマスードは言ってました。現代的な考えを持った穏健派こそ、アフガニスタンでうまくいくはずであり、他の伝統的なイスラム国家のように、アフガニスタンを統治することはできないとマスードは信じていました。”                                                                            
1353年(1973-1974)、名誉あるジャミアット党(Hezb-e-Jamiat)は、ヘクマトヤールに別の暴動を起こすように命令しました。が、これもまた失敗し、何百もの学生が牢獄に送られることになります。                                                            
マスードは、このような状況にもかかわらず、自分の学業に集中する強い決意を持ち、勤勉に学業を続けました。彼の目標は、まずは大学でしっかり学業を修め、ゆくゆくはアフガニスタンの国と国民の役に立ちたいということでした。                            
軍事指揮官であり、ダウズ政府の高官でもある叔父のアブドゥル‐ラザック・カーンから、逮捕に向け当局が動いていると、マスードは警告   されます。そのため、エンジニアのジャアン・ムハンマドとともにポリテクニック大学を去り、1353年(1974年)初めてパキスタンに入国します。ほとぼりが冷めたころに、カブールで政治活動を再開するように、と指示されます。理想の実現のために政府軍から勝利を奪うとための政治活動として、マスードはパンジシールで初の軍事的反乱を起こすことになります。、1354年(1975年)まで続いた反乱の結果、22歳の若き指導者に率いられた名誉あるジャミアット党は、多数の死傷者をだしながらも全パンジシールを制圧し、政府軍に打撃を与えることになります。                                                                                 
ヘクマトヤールは間髪入れずにクーデターを起こし、カブール以外の地も進軍、制圧していく、とマスードに約束しました。が、マスードとその部隊は裏切られることとなります。そのため、パンジシールの抵抗軍は解散せざるをえなませんでした。1ヵ月後、マスードはカブールに戻り、さらにパキスタンのペシャワールに向かいます。この地でもパキスタン情報機関による監視があったため、マスードは再び身を隠すこととなります。                                                                            
反乱が失敗した後、党の雰囲気は一変してしまいました。何人かのメンバーは、計画性に乏しく仲間うちからも無謀と思われるような反乱を再び起こそうとしました。反対派と推進派2つのグループで言い争いがあり、最終的にイスラム党は2つに分断されます。反乱に反対したグループは、マスードとともにラバニに残り、もう1つのグループはヘクマトヤールの勢力に参加することになります。            
この2つのグループは、時に和解しますが、いつの間にかまた分裂するということを繰り返していました。最終的に、彼らはカアジ・アミン・エ・ワカを2つのグループの代表と宣言し、再び結束することになります。ヘクマトヤールは、反対勢力をパキスタン政府に密告し、彼らは逮捕や殺害されることとなります。ジャアン・ムハンマドは、売り渡されたものの1人でした。ヘクマトヤールと彼の庇護者のパキスタン人であるケロとバボールは、当時、ヘクマトヤールの自宅にいたマスードを逮捕しにきます。この状況がいかに危険であるかを瞬時に理解したマスードは、やって来たパキスタン人護衛兵を2丁の拳銃で脅し、何とか逃亡することができました。公式記録には、ジア・ウルハックが権力を握る時期まで、マスードはパキスタンに留まっていたことになっています。                                      
一連の事件の後、名誉あるジャミアット党は単独で行動することを決め、マスードは1357年(1978年)の共産主義者の反乱まで、再びカブールで活動することになります。マスードの腹心のみが、彼がこの時期にパキスタンにただ留まっていたのではなかったという真相を知っていました。一番近しい友人の1人によると、カブール警察の注意からまぬがれるため、アフガニスタンの東部地方で過ごすことも時々あったそうです。                                                                               
マスードは戦争が始まったばかりのノオリスタンや他の地域に向かいました。彼は、共産主義者に対する戦争に対するアフガニスタン国民の意見に耳を傾けたいと考えていました。国民の戦争への決意を確認するとすぐに、マスードは20人の若者とともにパンジシールに出発します。1358年(1979年)、ソ連はアフガン侵攻作戦を開始しました。マスードの党員がすでにレジスタンス活動を始めていたコナールで、マスード達は暖かく迎えられます。ところが、部隊はかろうじて武装化しているに過ぎなかったので、コナールで戦闘が始まると党員達はソ連の兵隊に捕らわれてしまいました。                                                               
まだ十分な軍備が整っていないマスードとその部隊は、地元であるパンジシールに進攻します。戦闘員の士気、所持する武器の数、志願兵は何人かという各情報を得るため、この地域の村々の年配者達にマスードはよくコンタクトをとっていた、と目撃者達は報告しています。祖国と国民を圧政から解放するための戦い、そしてマスードのために、パンジシールの住民は全てを行うことを決心しました。         
老いも若きも、男も女も、全ての者がレジスタンス活動が必要だと確信し、そのために戦う準備はできていたにもかかわらず、一家の大黒柱は軍務に参加できないという命令を出しました。彼は、家族を養うこと自体が、重要なレジスタンス活動の一部であると志願者に説きました。彼らの敵は超大国で、助けを必要とする弱き存在の自分達の家族を守らなければいけませんでした。                   
再びパンジシールでの武装蜂起、今回はマスードの指揮の下で行われます。この戦闘は、パンジシール、サラング、ボラ・ガイン全体で40日間続き、敵の部隊からこれらの地域を解放することができました。この40日の後、マスードは足を負傷し、味方の戦闘員には武器も弾薬も残されていませんでした。ノリスタンから600人の交代兵が救援に来たにもかかわらず、最終的にこの戦闘は敗れることになります。そこで、マスードはタジュウディン叔父ともに、とパンジシールに戻ります。マスードは今までの戦闘結果を振り返り、新しい戦術…つまりゲリラ戦術を採用することを決断します。こうして、マスードは世界一のゲリラ戦術家となることになります。                        
ロバート・D・カプランは、“神の戦士達”1991年の中で、“アハマド・シャー・マスードは、ゲリラ運動を指揮した20世紀の人物の中で最も偉大な指導者の1人とみなすべきです。彼はマーシャル・チト、ホー・チ・ミン、チェ・ゲバラのように、自身の敵を打ち破りました。他の指導者の状況と比較すると、敵から継続的な攻撃を受け続け、敵の軍隊から防衛するのにより困難な広大なエリアをマスードは統制しました。チト、ホー・チ・ミン、ゲバラが抵抗運動を指揮したエリアと比べると、マスードの防衛エリアは、敵の武力からより多くの攻撃を受けたのです。”                                                                               
国際観測機関によれば、マスードはソ連軍全体の60%にあたる損害と死傷者を与えました。そのため、彼は対ソ連軍史上、最も偉大な軍人であることが証明され、同時にマスードの名前はパンジシールとは切り離せなくなったのです。マスードは“パンジシールの獅子”と称され、“不敗のソ連軍”の名声を叩き落したのです。多くの人々は、尊敬と愛情を込めて、単に“アメール・サヒブ(司令官)”とマスードを呼びます。
マスードが話し始めると、たとえ一つの単語さえ理解できないとして、私は思わず耳を傾けざるをえませんでした。というのも、どういうわけか彼が紅茶を注ぐ動作や、私たちが学ぶべき秘訣か何かがあるかのようにジェスチャーを交えて話す仕草に、なにか意味があるように感じ、彼の一挙一動を注視しました。、”セバスチャン・ジュンガーは執筆しました。                                      
彼の軍事的成功と国民愛は、同時に多くの敵や憎悪を生み出しました。特にグルブディン・ヘクマトヤールは、マスードに敵意をあらわにする一番のライバルになりました。                                                                    
マスードの敵は、彼に近づいて暗殺しようと企てていました。ロシア当局は、マスードの捕縛に懸賞金をかけましたが、彼が組織した諜報機関がこれらの企てを阻止しました。                                                               
1358年(1979年)、戦闘で足に大怪我を負った際、マスードのレジスタンスの戦闘員は政府軍の部隊に包囲されます、しかし何とかマスードは脱出することができました。                                                                      
1359年(1980年)、若い兵士が暗闇を利用してマスードの車まだ3mまで近づき、発砲しました。その時、“同胞よ、君の手は震えている。君はまだ誰も殺したことがないんだろ。”マスードはそう言うと、その兵士を逃がしました。                               
1361年(1983年)、ソビエトの特殊部隊は、パンジシールのマラスパ近くのトンネルの出口を封鎖しました。しかし、マスードと彼の仲間はどうにか突破することができ、敵に見つかることなく逃げることができました。                                      
1361-1362年(1983-1984年)-マスードとソビエト軍の間で休戦協定が結ばれる年となりましたが、この時もソビエト側は2種類の戦術を使い、マスードを暗殺しようとします。                                                              
最初の作戦は、パンジシール内のオナバ宿営地に、協議と交渉をすると約束し、マスードをおびき出し捕縛しようとしました。タジク人の通訳が気づき、この試みは失敗に終りました。次に、マスードの仲間を裏切らせて、暗殺させようとする作戦をとります。ソ連軍は、アブドゥル‐クアデル・ナアシャアルというムジャヒディンの料理担当を買収しました。彼はマスードを毒殺するよう命じられてましたが、結局は逮捕されます。                                                                                
当時、アフガン政府の諜報機関の長官で、後に大統領となるナジブラ博士は、かつての級友カムランの助けを受け、マスードを殺そうとします。ナジブラ博士は、マスードを若い頃から知っていたので、マスードがいかに友好的で親切か、いかに形式ばらずに友人を歓迎するかということを知り尽くしていました。当時、カムランはサッカーのアフガニスタン代表チームのキャプテンでした。彼はパンジシールに行き、マスードと数日過ごしました。最終的にマスードが戦う理由を理解した後、カムランは暗殺計画のためにアフガン政府から渡された消音銃を手渡します。その後、カムランはドイツに避難し、一時的な政治亡命を要求します。                                 
1368年(1989年)、ヘクマトヤールの名誉あるイスラム党のショラア・エ・ナザアルの指揮官会議の後、ショラアのメンバー達を罠にかけ、待ち伏せ作戦に引き込みました。何十人も殺害さ、その中にはマスードの親しい友人や腹心も含まれていました。ヘクマトヤールは、集会で計画された今回の攻撃を中断させることまでは成功しましたが、待ち伏せ作戦の一番の標的だったマスードの脱出は許すことになりました。                                                                               
1372年(1993年)、マスードとショラア・エ・ハマハンギの間で不和が広がっていた時に、ヘクマトヤールの指示により、マスードの乗ったヘリコプターはショララ・エ・ハマハンギ指揮する戦闘機の銃弾を浴びますが、ヘリコプターのパイロットはなんとか不時着に成功します。この暗殺計画の後、マスードはヘリコプターの操縦方法を学ぶことを決めます。同じ年、カブールのワジール・アクバール・カーン地方でドスタム市民軍による待ち伏せ攻撃を受けました。                                                           
1361年(1983年)、総力をかけたソビエト軍を二度撃破した後、ソビエト最高司令官は休戦協定をマスードと交渉することについて同意します。ここにきて、ソビエト連邦は、ムジャヒディン、中でも特にマスードは危険な政敵であることを初めて公式に認めることとなります。休戦協定は、専門家の多くにはアフガニスタン抵抗軍の最も偉大な勝利の1つだとみなされています。休戦状態は1年継続します。         
マスードは最も大きな成功を収め、人生で初めてアフガニスタンの北部地方に長期旅行に出られるようになりました。この旅行はと有益であり、それゆえ1362年(1984年)の冬にマスードは、いわゆるショラア・エ・ネザアルという評議会を支配党所属の抵抗軍指揮官達を1つにまとめたことです。マスードの目標は、アフガニスタンの政略として統一されたものを打ち立てること、隣国が立ち上げた政党が関与しない軍隊を組織し一つにまとめることでした。                                                            
ソビエトのパンジシール攻撃が再開されましたが、マスードは自分がいなくても、他の指揮官の率いるレジスタンスにパンジシールは任せられると確信していました。彼は前地区法定代理人アブドゥル・マハムド・ダキックに指揮権を残しました。さらに、アンダラアブ、コスト・エ・フェレング、エシュカメシュ、ナフリン、ケシュムの地区は、マスードの活動拠点に変わりました。これら5つの地域は、“パンジ・シール(5匹のライオン)”として今は知られています。                                                           
1366年(1987年)、マスードはパルワン州とカピサ州で、民主的で独立した行政、情報、組織システムを自ら構築していたので、この2つの州はアジミに指揮権を任せることができました。このことは、自身の領土だけを統制するいわゆる“軍事指導者”と比べると、マスードがいかに異なる存在であるかを表しています。この結果、マスードは抵抗軍の統一に集中することが可能になりました、が同時にこのシステムは各地方の自決権を高めることを許すこととなります。                                                              
“将来の政府は、国民の選挙により構成されるべきです。男性も女性も参加するべきです。他民族間でうまくバランスをとることができる政治形態は、民主主義しかない”マスードは言いました。                                                       
マスードは、アフガニスタン史で唯一の行政と法律システムを作った。この地域で、彼はドラッグやタバコ製品を厳しく禁じました。この禁止令は地域の住民に支持され、最初は1992年まで続き、再び1996年からマスードの死まで続きました。これらの製品は、栽培や工業化の禁止も含まれ、兵士や他の高官にも適用されました。                                                                                                                                                                     
マスード: “ソビエト連邦への抵抗運動の開始とともに、経済的な理由から煙草を禁止しました。人々は煙草を吸いすぎている。この地域は煙草にお金を使いすぎていて、本来食べるべき量を食べなくなっています”                                                         
ユーゲン・ソルグ: “この地域では、アヘンを栽培している。村々には、アヘンを栽培畑もあります”                               
マスード: “バダクシャン州ではアヘンが栽培されている。そこではイスマイリットが生活しています。1つのイスラム宗派で、信者は何世紀もアヘンを常習してきています。彼らは自分達が使う分のみ栽培しています。しかし、もしチャイ・アブの地元の刑務所に行くと、麻薬界の大物ゴラム・サリムを見かけることになるでしょう。大規模な手入れを行い、私達は半トンものアヘンを彼の農園から押収しました。彼の財力と権力にも関わらず、彼は刑務所で今3年目を迎えています”                                           
1367年(1988年)、35歳でマスードは、仲間の1人カアカアル・タジュディンの娘と結婚します。このことは、安全上の理由で、秘密とされました。長年の仲間にさえ、数年間、知らされませんでした。                                                              
マスードは、パキスタン諜報機関の干渉に対し、厳しく接してきていたので、いくつかの戦線で同時に戦わなければいけなかった。1つは、ソビエト連邦を主力とするアフガン政府に対するレジスタンス。もう1つは、パキスタンとその傀儡のヘクマトヤールとの戦いでした。       
マスード“私達の政策は、あらゆる勢力と良好で親密な関係を保つことです。ですが、今まで他勢力に服従することは全くありませんでし た。そして、これからも甘受することは決してありません”                                                            
1362年(1983‐84年)、アフガン共産主義政権は、マスード“不在”の状態で国家反逆罪に問う裁判起こします。この法廷で、マスードは有罪とされ、死刑の判決を受けます。パンジシールでの攻撃の前でさえ、政府は、“マスードの処刑は執行された”“マスードの一派を撲滅した”と、特にカブール中心に発表していました。これには、マスードのいないカブールで、マスードに従い戦う者達の士気を下げさせるという政府の狙いがありました。さらに、マスードから法の保護を奪う作戦でもありました。                                                              マスードは、これらが、パンジシールへの総攻撃の予備行動であると予測していました。                                     全パンジシール地方の代表者会議で議論を尽くした結果、 マスードは短期間での総員避難こそがパンジシール市民虐殺を回避するベストな方法であろうと判断します。                                                                        
1363年(1984年)春、ソビエト連邦はパンジシールへの総攻撃を計画します。それゆえ、マスードはパンジシール市民に対し、近くの谷へ総員避難するように話します。                                                                                   人々はマスードを敬愛し、彼の抵抗軍に完全に傾倒していたので、このとてつもない犠牲に同意します。このマスードの要請は13万人に達し、それは正にパンジシールの全住民になりました。彼らは2週間、自宅を留守にします。つまり、何代にも渡り、せっかく築き上げた財産全てを置いて立ち去ることになったのです。このことは、アフガン人民の最大の犠牲の1つとなっただけでなく、受身な方法ながらも“強大な”ソビエト軍に対する抵抗でもあり、後にソビエト連邦の崩壊の一因ともなります。                                                 
この一連のマスードの行動を通し、国際的著者のうち例えばロバート・カプランは、“神の戦士達”の中で、マスードを“冷戦の勝者”と断言せしめることになります。                                                                        
カプランは、こう書きました。“この時、マスードは一戦交えることもできたにも関わらず、戦闘を回避しました。このことは14年ものレジスタンス活動における彼の戦略でした。アメリカのイスラム聖戦(ジ・ハード)や関係勢力への支援に関する計画と戦略がどれほど間違っているのかということを、このナジブラ政権に対する勝利が証明しています。マスードの非凡な才能と経験、そして人々にささげられた援助は、マスードをして冷戦の勝者とならしめた。ベルリンの壁崩壊も、マスードに帰すると言えます。                                            
ソビエト軍兵士が1368年の11月25日(1989年2月14日)にアフガニスタンを離れた後、マスードが召喚した“ショラア・エ・アリ・エ・ファルマアンデハン・エ・アルシャド・エ・ジャハディ、アフガニスタン”(イスラム抵抗軍指揮官高等評議会)が、今後のアフガニスタン国の運営方針を決定するために開かれました。この評議会は、1369年7月17日(1990年10月9日)に、バダクハシャ州シャ・サリムで行われました。評議会が終ると、マスードはそこから、パキスタンへと短期だが重要な旅行に出ます。そして、アフガン新政府の根幹をなす、“ショラア・エ・ラハバリ”(第一評議会)を含めた将来の政府について語りました。                                                 
ナジブラ博士はマスードに権力を譲ることを認め、宣言しました。しかし、ヘクマトヤールとISIの邪魔が入るので、マスードがしっかり機能する政府を開ける可能性はないだろうと確信していました。                                                    
1371年(1992年)、マスードは、ムジャヒディン軍には国を治める能力がないとみなしていました。しかしながら、ダアラアン・サング/パンジシールで、ムジャヒディン主導の長時間にも及ぶ会議の後、マスードはカブール共産主義政府の転覆は避けがたいが、とはいえただちに実行すべきではないという結論に達します。皆がこの計画に同意していましたが、ヘクマトヤールは反対し、すぐにカブールに進軍しようと考えていました。この時に録音された会話によると、共産政府は降伏の準備をしていたので、マスードはヘクマトヤールにカブールを攻撃しないように説得していたようです。ヘクマトヤールは、聞く耳を持ちませんでした。
マスードのカブールへの進軍の前に、彼はカブール市内で行動やふるまいについて、兵士に厳格な命令を与えました。彼はカブール市民を守るのが自分達の義務だということを兵士達に思い出させたのです。彼の率いる軍隊が人々を丁重に扱い、カブール滞在中に羽目を外さないよう本来の任務を行わせることは、非常に重要なことでした。
                                                                            共産政府が最後を迎えた後、マスードの部隊はカブールに侵攻し、バグラムを捕らえます、1371年の4月2日(1992年4月24日)の夕方前のことでした。 今回の攻撃の目的は、ヘクマトヤールの軍隊が首都に入り、市民が危険に陥ることがないようにと指揮されていました。名誉あるイスラム党員は、ともかくもカブールに入ります。彼らは全ての刑務所の扉を壊し、危険な犯罪者さえも解放してしまいます。各省の建物や重要文書が略奪されてしまい、全てのファイルは、マスード達が見つけたときには破壊されていました。重要な文書が失われ、新政府は最悪のスタートを切ることになります。                                                            
加えて、解放された囚人達が軍の倉庫を強奪し、いまや1万人以上の重武装した犯罪者がカブールに溢れていました。町には、軍、警察、諜報機関もなければ、無傷なビルや建物もありませんでした。                                              
前大統領のナジブラ博士は、カブールの国連事務所に亡命を求めました。マスードはナジブラに危害が加えないように、このビルの周りを自身の部隊で警護させました。                                                                
市民の間のマスード人気を知る、彼の友人達は、マスード主導の新政府を設立してほしいと頼みます。カブールがマスードの率いる軍隊が包囲していたにもかかわらず、マスードは政治指導者に実権を譲り、これ以上の戦争を続ける理由を何人にも与えないため、彼自身が身を引くことにしました。                                                                               
1992年2月5日(1992年4月25日)、第一評議会はカブールに到着する前に“ショラア・エ・ファルマアンデハン”指揮官高等評議会および防衛省長官のトップに、マスードを選出したとラジオを通し宣言しました。新しい大統領ムジャデディとその内閣は、1371年2月8日(1992年4月28日)、カブールに到着しました。                                                                
新政府設立は、ソ連に対する勝利だけでなく、パキスタン諜報機関ISIに対する勝利でもありました。つまり、ムジャヘディンの勝利は、パキスタン政府にとっての政治的敗北だったのです、というのはパキスタンは常にヘクマトヤール側に希望をかけ、対マスード策として彼を支援してきたからです。このことにより、イラン・パキスタン・ウズベキスタンのそれぞれが支援する各党の入閣を新政府に強要するようになりました。これらの国々の干渉がありながらも、カブールでの戦争を始めなければいけませんでした。                                                                                                                                                                                             これらの国の政府は、アフガニスタンでの彼らの干渉をごまかすために、この戦争は内戦であったと強調しました。すでにソビエト連邦でも同じような路線がとられていました。                                                                
パキスタンはアラブ諸国の協力を得て、影響力と統制を示す政策に転換しました。ISIはタリバンを結成し、パキスタンの軍事力全体を傾けて、力を注いできました。まさに国際テロリストと同じように、タリバンの部隊は南の州を通り越境してきました。タリバン、パキスタン、国際テロリストの三者は、アフガニスタンの地を自分達が陰謀を企てる際の安全な避難所にしたかったのです。しかしたった1人の男だけが彼らに対立しました。そのマスードが生きている限り、勝利は不可能だとビンラディンでさえ言わざるをえませんでした。             
マスードの家族も共産政権の標的となり、マスードの両親の実家は没収され、学校に作り変えられてしまいました。いまやマスードはカブールに戻ってきましたが、そこを学校のままにしておくことを決めました。                                           
1372年(1993年)、マスードは“ボニィアド・エ・ファルハンギ・ワ・タワニ・ムハンマド・エ・ガザリ”(ムハンマド・ガザリ文化財団共同組織)を設立します。マスードは、参加者1人1人のイデオロギーで差別することなく、科学者、学者、作家、芸術家を財団に呼びよせました。女性にも参加する権利が与えられたことで、女性は芸術や手工業を通して生活できるようになります。                           
家庭相談課は、低所得者向けに年中無休、無料で電話相談を受け付けました。この財団の援助物資配給課は、アフガンでは初の共同出資者として赤十字が支援しました。                                                                        
無給の活動に従事する間に、名誉あるイスラム党のロケット弾により、2名のメンバーが死亡しました。犠牲となった財団の内科医は、一週間に2回、半日間、無料で診察費をお金を払う余裕のない患者を診ていました。また患者は必要とする薬を小額または時に無料で、提携する薬局から手にすることができました。
“マトボア・エ・ダワラティ”(国営印刷会社)が名誉あるイスラム党により全焼してしまいます。 全ての新聞、雑誌、週刊誌は、ガザリ財団が設立したこの会社から印刷されていました。マスードは、どんなに困難な状況でも、報道の自由は守られるべきだと確信していました。マスードは財団の財務担当だったのですが、実際にその仕事に従事することはしませんでした。ゴル・ムハンマド・ヤマ、マハディ博士、ハイダリ・ワジョオディ、アジズラ・イマ、サイード・ヤコブ・ナウイド、ラヒム・ラファト、シェル・ムハンマド・カハラらで構成された評議会は、国際的に著名な作家であるワセフ・バクタリの協力で、この財団を経営していました。ガザリ財団はアフガニスタンの芸術家に、彼らの作品をカブールの様々な場所で展示することを可能にしました。多くの芸術家や作家が作品を賞賛され、パシュートのウスタド・ザババルダストやアハマディ・アジウラを最優秀画家、イスハアク・ナンギアルを最優秀詩人に選出されます。
ナンギアルは、マスードや新政府の擁護者ではありませんでした。しかし審査員団は大学講師で構成され、優秀作の選出はその作品の質だけを唯一の評価基準としました。これこそ正に、マスードがアフガニスタンの芸術家のための環境として求めたことでありました。 
この財団を設立することは、文化面におけるマスードの最も重要な業績の1つでした。政治的イデオロギーからは離れ、人々が相互理解できる場となりうる文化施設をマスードは作りたかったのです。                                       
アフガン政府への敵対者達は、イラン、パキスタン、ウズベキスタンによって組織された“ショラア・エ・ハマアハンギ”(調和評議会)の下、1つにまとまりつつありました。1372年10月11日(1993年1月1日)、彼らは新政府に対し、反乱を試みます。実質、国家の軍隊が支援している反乱でしたが、マスードとアフガン防衛省はこれを沈めました。                                             
ヘクマトヤールはパキスタン政府の代わりとなって、パキスタン主導の“アフガニスタン‐パキスタン連合”を宣言したがっていました。これによると、アフガニスタンはパキスタンの一部となり、独立国家ではなくなります。ヘクマトヤールは彼ができる全てを尽くし、この最終目標を成就させようとしていました。パキスタン政府はロケット爆撃でカブールを占領するようにヘクマトヤールに命じます。パキスタンの支援と影響下で結成された強力な軍隊は、1日3000発に達するロケット弾をカブールに発射し、1万人が殺害され、町はほぼ全壊状態となります。
一方、マスードは、自分達の利益により隣国の国々が急速にまとまった各同盟、様々な党、グループと、無数の議論、協議、交渉、協定をこなしていきました。圧倒的多数の敵は、民族連合、異言語、民族または地域の特殊な権利などをことあるごとに議題に持ち上げてきました。しかし政府に対する要求や非難という名をかりつつも、裏で抱えていたたった1つの目的は、政府の転覆でした。マスードは平和的な解決を見出すためにあきらめず努力をし続けました。マスードの敵対者は強力な軍事力による攻撃、大量ミサイル爆撃、無差別テロを市民にしかけていきます。自身が首相のように振る舞うヘクマトヤールは、カブールに通じる全ての道路を閉鎖し、町への供給を全てと絶ってしまいます。市民からの支持を常に希望していたマスードだったので、このような不当な手段は彼の立場を危うくさせます。
ヘクマトヤールと仲間達は、非難声明を出し、マスードの評判を効果的におとしめることに成功し、彼は徐々に市民からの支持を失っていきます。カブール市民は、包囲され、飢え、爆撃され、まるで武装犯罪者でいっぱいの檻の中で生きているようでした。この混乱の中、マスードは秩序を求め、訴えていきます。                                                           
マスードは、ヘクマトヤールが市民を攻撃しないようにするため、尽力を出します。しかし、パキスタンは軍事的にはマスードを倒すことはできないと分かっていたので、ヘクマトヤール政府は今まで通りの非人道的な政策を継続します。一年後、ヘクマトヤールはマスードの辞任と終戦条件を決定します。マスードは同意しましたが、ヘクマトヤール率いる名誉あるイスラム党の攻撃は続きました。            
マスードは、防衛省職から辞任した後、彼は隣国の侵略に対抗する武装勢力の指揮権を引き受けます。パキスタンのマスード部隊の殲滅は失敗に終ります。                                                                                       
パキスタンは、買収工作により様々な政党のメンバーを獲得していき、それは人々の間での全アフガニスタン抵抗軍の評判を落としていくことになります。カブールの武装している全ての人はマスード陣営とみなされ、彼らのやること全てはマスードの責任とされていました。今の人々が忘れていることは、パキスタン人に買収された様々な政党員や指導者からなるこの政治連合の存在です。                      
1373(1994年)、3会場で会議が開かれました。1回目は15名のアフガニスタンの各州の代表者が会議を行い、2回目は25名の州代表者が集まりました。1373年の4月29日から5月3日(1994年7月20日から25日)の間、高等イスラム評議会“ショラア・アアリ・イスラミ”の会議が、3会議の最後として開かれました。                                                             
マスードは、将来の大統領とその職務について討議し、個々人の同意を得るために、この評議会に政治分野、文化分野を代表する個人、知事、指揮官、聖職者、ムジャヒディンの代表を集めました。多くのアフガニスタン人と同じように、マスードも今回の会議が民主主義と自由な選挙のための小さな希望であるとみなしていました。マスードの支持する大統領候補、ラバニ博士はこの会議には出席すべきではありませんでした。結局、ラバニ博士は会議に出席していたにもかかわらず、新しい大統領制へ移行させることができませんでした。このことは、将来の大統領制について政府が決めることもできないほど、ヘクマトヤール大統領と原理主義者である大統領支持者の影響力が大きかったという事実を表しています。                                                                    
そうこうしている間に、タリバンが次々とアフガニスタンの地域を占領していき、ついにはカブール城門まで達することになります。タリバンは、ヘクマトヤールの領土も同じく占領しました。マスードは高等評議会では高い評判を博し、ヘクマトヤールの考えに対する否定的な態度がよく知られていたにもかかわらず、政府にはヘクマトヤールの政策を支持する原理主義者が多かったため、彼がカブールに逃げ込んでくると、マスードはそれを受け入れることとします。彼ら原理主義者たちがヘクマトヤールをカブールに招いたのですが、そうでもしなければヘクマトヤール自身はタリバンにより命を落とすことになっていました。数年来、ヘクマトヤールは、政府を解体させようと最大限つくしてきたという事実があったにもかかわらず、首相の名目でマスードの事務所を乗っ取ってしまいました。そ ため、マスードは味方の陣営の中に、抑えることのできない敵を抱えることとなります。                                                             
1375年(1996年)の始め、マスードは単独でヘクマトヤールの前拠点マイダン・シャフルに赴き、ムルラ・ラバニ率いるタリバンと終戦について協議しようとします。タリバンの代表者がカブールを訪れ、双方の終戦条件における相違点を協議し、妥協策を見つけるということが決定されます。そして政府側の40名の聖職者が、タリバン側の40名の代表者が包括的な協議をすることになりました。その後、政府は、協議の準備が万端であることを何度も呼びかけましたが、タリバンからの反応はありませんでした。その代わり、彼らは政府とカブール市に対して大規模な攻撃を開始しました。結局、マスードが宿営地を脱出することに成功し、タリバン指導者達は悔しさをあらわにします。               
1375年7月4日(1996年9月26日)、カブール市街はタリバンとアルカイダとパキスタンの連続爆撃を受け、マスードの率いる軍隊は市街戦を長時間続けることが可能だったにも関わらず、カブールからの全軍撤退を指示します。マスードはカブール市民の保護を優先したのです。
もはやパキスタンのISIの支援を失っていたヘクマトヤールだったのですが、彼はいまだアフガニスタンの正式な首相に留まっていました。しかし、ここまでくるとアハマド・シャー・マスードの指揮下の下、パンジシールに避難する他に選択肢はありませんでした。マスードはヘクマトヤールに他の大臣や政府関係者のように、海外亡命権を与えます。ヘクマトヤールはイランに逃げますが、そこで、マスードが自分に対し、暗殺テロを画策していたと発言します。                                                            
当時、友好的なものも敵対的なものも、今回の撤退は、取り返しのつかないタリバンの勝利とアフガニスタンのレジスタンスの終焉であると見ていました。マスード以外の全てのリーダーは既に海外に逃亡している中で、政治、民族、イデオロギー、宗教に関係なく、アフガン人は自由のためにマスードの指揮の下で戦い続けました。                                                                            マスードの弟のアハマド・ワリは電話で、政治指導者がやるように、彼に一時亡命するに求めました。しかし、マスードは言いました。“私達は国民の同意をもってカブールで国を主導している以上、それはアフガニスタンの国、独立、国民を守ると約束しているのと同じことです。今、守るべき国民が危険の最中にいるのに、私達だけが逃げることができるでしょうか?それが本当に正義なのでしょうか?そうは思いません。私はこの国に残り、最後の一片になるまで抵抗します。神の意思により、アフガニスタンがいつの日か自由になると確信しています。”                                                                                    
5年続いた、対タリバン、ビンラディン、パキスタン戦は、アフガニスタン史において最も印象的なものの1つでした。              
マスードの比類のない軍事的指導力、戦術的・戦略的構想能力、政治力から、彼に与えられた愛称は、“ヒンドゥー・クッシュの鷲”でした。 
1375年(1996年)の冬、マスードは全てのタリバンへの敵対者を、“ジャブエ・ネジャアトエ・メリ・バラヤ・アアザアディ・アフガニスタン”(アフガニスタン自由救済国民戦線)と“ジャブヘ・モタヘドエ・メリ”(国民統一戦線)にまとめる立場にいました。これは、後にパキスタンメディアで広がったり、西側で思われていたような、“北部同盟”つまりアフガニスタンの“北部の州”だけではなく、国中の抵抗勢力から成り立った連合でした。最もよく知られた統一戦線のメンバーは以下の通りです:                                                                 
北部からは、ハジ・ラヒム、ピラム・クオル指揮官、ハジ・モハンマド・モハクエク、ドストム将軍、カジ・カビル・マルズバン、アタ・モハンマド指揮官、マレク将軍。東部からは、ハジ・アブドゥル・カジール、ハズラット・アリ指揮官、ジャアン・ダアド・カーン指揮官、アブドルラ・ワヘジ。 北東部からは、クアトラ指揮官とナジムディンが参加。南部からは、カリ・ババ、ノオイザイ、ホタク。西部および南西部からは、イスマイル・カー将軍、イブラヒム博士、ファズルカリム・アイマック。中部からは、アンワリ指揮官、サイド・フセイン・アアレミ・バルクヒ、サイド・ムスタファ・カゼミ、モハンマド・アリ・ジャウェド、カリム・カイリ、シャール・アラム指揮官、ラスル・サヤフ博士。
それゆえ、“北部同盟”という文字通りの北部出身のリーダーのみで構成される同盟ではなかったのです。そのため、このアフガン抵抗軍が、全アフガニスタンの代表しではないと主張しプロパガンダに利用しようとするのには疑問が残りますし、信用に値もしません。                     
ソビエト連邦、タリバン、アルカイダとの戦いを通し、マスードは捕虜の待遇が良いことでよく知られました。捕虜は、ムジャヒディンと同じ食物を与えられ、パンジシール内を自由に動くこと、来訪者との面会、手紙のやり取りが許されていました。                      
タリバン指導者ムルラハ・ヤール・モハンマドはマスード部隊により解放された後、“マスードはアフガン国民の中の国民でした。彼は何度も何度も外国の侵略と戦っています”。                                                             
1376年(1997年)、マスードは、彼の指揮で会議を再び召喚し、次の首相を決める集まりました。どこの党にも所属していないアブドゥル・ラヒム・ガフォオルザイが候補でしたが、反対票なしに新首相に選ばれました。バルクフで、新しい公な政治的なプログラムがテレビを通し紹介されました。1373年(1993年)へラット会議が失敗した後、国民のための政府の実現に向けて再び歩み始めました。             
マスードは新調した軍服を着たアフガン軍とともに、カブールの城門を数回、大規模な攻撃を仕掛けます。しかし、その時、新首相の飛行機がバーミヤン周辺で撃墜されてしまいました。このガフォオルザイの死によって、カブールで安定政府を作り上げるマスードの希望が失われることになります。                                                                      
市民が受け入れてくれる政府を作り上げるまでは、カブールに侵攻するつもりはなかっため、しばらくたってマスードは部隊をカブール北部からパンジシールに再び撤退します。                                                          
カブールからの撤退後、人々が次々とパンジシールに避難してきます。国際機関の助けで、マスードはパンジシールの学校をいくつか建て、そのうちのいくつかは女子校でした。マスードに許される手段はとても乏しく、建物も一時的なものでしたが、それが子供の教育を確保する唯一の方法でした。                                                                               
マスードがアルカイダやビンラディンらの国際テロについて語った時、西側諸国は誰もそれが何を意味するのか分かりませんでした。  
1377年(1998年)、オリバー・ロイとクリストフ・デ・ポンフリはエッセイの中でこう書きました。“マスードはなぜCIAや米国国防総省がグルブディン・ヘクマトヤールを支援したのか理解できませんでした。マスードは国を一つにまとめ、平等な社会を作り、自由な選挙を行うことを常に夢見ていました。”                                                                       
マスードと出会い、外国の干渉があった証拠や彼の意見に納得した人々の主張により、2001年春のパリでの欧州議会に招待されたマスードは、アフガニスタンでの戦いに世界の関心を寄せるため参加します。長期間継続した努力の中でも特に女性の権利についての努力を称え、欧州議会の議長のニコール・フォンテーヌはマスードのことを“平和を支える柱”と呼びました。                             
ロイ&ポニフィリィは“アハマド・シャー・マスードは、今日の政治界の人物とは違い、どんな場合であっても、できない仕事を自分から求めて表に出るようなことはありませんでした。彼を訪れた人々に対し、皆が訪れるようになることは何もしなかったとマスードと話したのは事実です。マスードにメディアの前で口を開かせるのは難しいです。しかし彼は何も隠す必要がないので、撮影をとることは許可しました。”                              
マスードは、レジスタンス活動をしているアフガニスタンの人々を見捨てないようにと、世界の人々に訴えました。というのは、アフガニスタンがテロに屈するということは、全世界がテロに敗北することを意味するからです。たった数ヵ月後に、マスードの正しさが証明されます。    
チャンジス・ペイルワンは“アフガニスタンはレジスタンスに対して感謝しています。国際社会も同様です。さらに、アフガン周辺地域も感謝しているでしょう。この数世紀、この地域は統一をもたらすリーダーが不在でした。イランや他の国でも同じ状況です。アフガニスタンだけが、私達にマスードという指導者を与えてくれました。”                                                    
1380年6月18日(2001年9月9日)、タクハル州のコホアジャ・バハウディンで、取材と偽った2人の外国人による自爆テロで、マスードは殺されました。1380年6月24日(2001年9月15日)、マスードはパンジシールのサリチャ山に埋葬されました。そこは生前からマスードが埋葬地として望んでいた場所でした。彼は48年の人生のうち31年を、祖国と国民に捧げました。そして、マスードはこの奉仕の中で、身を犠牲にするであろうことを覚悟していました。                                                                
セバスチャン・ジャンガは述べました。“マスードは、タリバン打倒をその目に見ることは適いませんでしたが、彼の戦争は最終的には勝利をおさめたのです。                                                                            
妻と6人の子供は生き残りました。                                                                     
死後、カルザイ大統領の下、アフガン仮政府はマスードに“アフガン国民の英雄”という称号を授与しました。                           
レザは語ります、“我が友よ、人生は美しい。私は強く信じます。一人の男が殺害されました。肉体は破壊されました。一切の肉と血はこの世から消し去りました。しかし、マスードの思想を消滅させることはできなかったのです”。 
 
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